中世の越前焼
平安時代にはかめ、壺、すり鉢のほぼ3種に限定して作られますが、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、火葬の普及に合わせて骨壺(*)を作り、他にも写経を納めた経筒を入れる為のかめなど宗教色の強いものを多く焼いています。農業では二毛作が普及して肥瓶や種壺の需要が生まれ、また生産の拡大に伴い穀物貯蔵用としても使われます。このように、越前焼は人々の日常生活に密着したやきものを作ることで、北陸最大の窯場に成長していきます。
室町時代後期には、それまで燃料の木材を求めて丘陵地をあちこち移動していた窯が、織田町平良(たいら)に集まって飛躍的に生産を伸ばし、越前焼は最盛期を迎えます。窯が一ヶ所に集中したことで粘土・燃料の運搬用道路が整備され、成形・焼成・窯出し等における共同作業の管理体制も整えられました。こうして作られた越前焼は日本海の海上交通に乗り、北は北海道から南は島根県まで、日本海沿岸の広い地域で使われました。
・すり鉢・・・壺が焚き口に近い窯の前方で焼かれるのに対し、すり鉢は窯の後方に入れて焼かれた為、ほとんど薪の灰が掛かることなく、自然釉がついているものは稀で、乾いた灰白色か茶褐色をしています。
・大がめ・・・「ねじ立て技法」によって作られる代表的なもので、かめの開口部の形状は鎌倉時代には折り返し、室町時代になると簡素化されて上面が平らになります。
・壺 ・・・室町時代までに作られた壺は、茶褐色の地肌に透明感のある緑色の自然釉がかかっているのが特徴です。肩や胴の部分に「十」や「|||」などの刻文が付けられているものも多く見られます。
・おはぐろ壺・・・お歯黒(*)に使う鉄漿(かね)を入れる為の高さ12センチ前後の小壺で、油壺や骨壺としても使われました。江戸時代中期までは大型のやきものと同様に「ねじ立て技法」で作られ、小型ながらも力強いものが多く見られます。過剰な装飾がなく花映りが良いため、茶室の花入れとしても重宝されました。
*骨壺・・・火葬にした骨を納めるための壺で、骨壺は土に埋めて供養されました。
*お歯黒・・・歯を黒く染めること。はっきりとした目的は分かりませんが、一般的に、貴族の成人女性の身だしなみとして奈良時代から行われはじめ、その後男性貴族や民間にも流行し、武家の男子も行うようになります。この習慣は明治に入るまで続きました。
近世からの越前焼
桃山時代以降の近世においては、徳利や茶入れなど50種類以上のやきものが作られるようになり、施釉方法においても、鉄釉や藁灰釉などを組合せた釉薬の二重掛けや掛け分けを行うなど多様化します。また、高温焼成を必要としない「赤べと」と呼ばれる鉄分の多い土が表面に塗られるようになり、燃料の消費量は軽減しましたが、中世の越前焼にみられる茶褐色の地肌と緑色の自然釉のコントラストによる魅力は失われます。江戸時代中期に入ると、他の産地の施釉陶器や色絵磁器に押され、越前焼は次第に衰退していきます。瀬戸や信楽、九谷などの先進地から陶工を招いて高級陶磁器を作成する窯もありましたが、いずれも成功には至りませんでした。さらに第二次世界大戦後には、生活様式が変化してかめや壺の需要がなくなり、越前焼は風前の灯火となります。
しかし、越前の窯元達は中世からの伝統を守り続け、昭和45年、福井県が宮崎村に「越前陶芸村」を建設したことでやきもの作りの環境が整備され、越前焼は息を吹き返します。現在、福井県下には陶芸村を中心に約70の窯元を数えるまでになり、伝統的な越前焼はもちろん、現代の生活にあった多種多様なやきものから、新しい自由な雰囲気に溢れた作品まで幅広く作られています。 |